医薬分業 政治ドラマ〜分業攻防史
2007/04/02

 春は新しいことが始まる季節です。さて、医薬分業が医師や患者さんに抵抗なく受け入れられ、当たり前の状況になったのは、つい最近のこと。人はとかく過去のことは忘れがちです。また、若い方は下記のことをご存じないでしょう。何事も過去があり現在が、そして未来へ繋がって行きます。そのための参考に。
 昭和24年7月1日、米国薬学使節団が来日し医薬分業の勧告書を提出して以来、2年間にわたる分業という一大政治ドラマが繰り広げられた。このドラマは、3入の主人公によって演じられたが、26年6月5日劇的な幕切れを見ることになる。ここに登場する3人の主人公とは、一人が連合軍総司令部公衆衛生福祉部長サムス准将で、今一人が武見目医副会長、そして高野日薬理事長(専務)である。さて、このドラマを演出したのは何者であったのだろうか、それは後で述べることにする。

 そもそも薬剤師の職能をかけた医薬分業の戦いは、明治22年(1889年)に成立した薬律(法律第10号)に端を発している。それはこの法律の付則で、医師の調剤権を特例事項として認めたからである。医師の調剤権は、これを医師側から見れば、医療の歴史から考えて至極当然のことであり、薬剤師のことなど念頭に無かったと言うべきであろう。したがってその後、明治から昭和23年まで数回、法律改正案を提出しては否決され、或いは薬事法の改正で何ら進展しなかったことも、医師は当り前だと思っていたはずである。

 大衆の意識、認識も殆んど無く、知識人でさえ医師と薬剤師の単なる薬の取り合いと考 えていた時代、世の中を見れば覚醒剤が薬局で自由に売られ、社会問題化していた時代、そこに絶対権力を有するサムス准将が登場し、医師の調剤権を認めない強制分業という刃を突き付けてきた。医師側にしてみれば、まさに青天のへきれきであったろう。医師の、医師会の所有する辞書には、任意も強制も分業という文字は無かったのだから。

 これに猛烈な抵抗を示したのが、武見氏率いる日本医師会であった。当時武見氏は副会長であったが、事実上、日医の代表者であり時の首相吉田茂をはじめ実力者に対しても大きな影響力を持っていたのである。この強制分業法案を取り扱かった最終責任者、参院厚生委員長山下議員が「その政治力は日医と日薬では比較にならない」と、言ったように強大なものであった。

 ちなみに、当時の開業医と開局者の収入は10倍の開きがあるが、政治資金においては10倍どころでは無かったであろう。薬剤師会では、絶好の機会を迎えながら、目標に達していないのである。

 さて、武見氏の頭にあったのは何であろう。分業論など当初から持ち合わせていなかった。25年6月5日、NHKが行った放送討論会で「調剤は看護婦や女中で結構である」と発言した言葉が全てを物語っている。武見氏にはいかに医師の権益を守るか、つまり経済面のことしか頭に無かった、ただ頭にあったのは当時の政治情勢だけである。毎日新聞が25年7月、分業問題の解説を行なっているように、日米講和条約の締結がいつになるかということであり、それまでは何んとしても分業問題を引き伸ばしたい。そのためにはあらゆる抵抗手段を取る。この一点だけであった。

 この事情はサムス准将もまた同じで、事を急ぐ必要があった。三志会(三師会)の俎上に乗せての世論の喚起、矢継ぎ早に厚生大臣、厚生省幹部、三師会代表を呼びつけての指示、そして、ついには武見氏の辞任に迫い込んで行くのである。一方、高野理事長に旗振り役をつとめさせ、高野理事長は千載一遇のチャンスとそれに乗り突き進んで行く。わずか2年前の昭23年に改正された新薬事法では、なんら変りなくというよりむしろ調剤権に関しては後退しており、薬剤師にとってみればサムス准将の登場は、まさに神さま仏さまであったに違いない。しかし、挫折の連続であった薬剤師には、今一つ盛り上がりが欠けている。礒田県薬会長が嘆いているが、旗振れど、笛吹けど踊らず、政治資金も出さず、集まらず、無関心の会員が多くいたのも事実である。

 さて、話しは戻るが、サムス准将は日医を廿く見過ぎていたのではないか。財閥解体、 農地解放、レッドパージ、その他諸々思うように改革してきた総司令部に対し、回が何んでも絶対反対の態度を示す日医には驚きもし、腹も立て切歯扼腕したに違いない。武見氏の首を切っても事態は変らず、ただ時間を浪費しただけであった。

 年が変り、昭和26年には勝負が見えてくる。少なくとも武見氏には、はっきりと見えていたはずである。厚生省の医薬制度調査会が、2月28目強制分業法案を答申するが、それも計算済みであった。最後の舞台となる参議院厚生委員会を、どのようにも動かせる自信があったからである。なお、当時の谷口日医会長は参議員で、この厚生委員会のメンバーであった。そして薬剤節会は一入の議員も有していない。辞任させられた武見氏が無役でありながら、この委員会の証人喚問に医師会を代表して登場している。またこの年には連合軍最高司令官が、占領法規の再審査権を日本政府に与えている。

 長びく朝鮮動乱、講話条約の早期締結とアメリカ側にも日本の協力を必要とする時代になりつつあったのである。もはやサムス准将にオールマイティーの権限は無くなっていた。というより、行使できない状態になっていた。武見氏は、それを承知していたのである。

 サムス准将は方針を問違ったと言える。25年の初めから絶対権力を行使し、法案を成立させるべきであった。なまじっか、三師会を舞台に上げたことが失敗だったのである。しかし薬剤師は、その存在を国民に知らせることができただけでも、サムス准将に感謝しなければならない。

 ドラマも終りに近づくが、サムス准将は、 5月25日参院厚生委員会に最後の司令(おそらく強制的なちのと考えられるが)を出す予定であった。ところが突然5月21日に辞任し、25日には帰国してしまう。薬剤師会は愕然とする。私は思う。多分解任されたのであろうと、そして武見氏に動かされた吉田首相の顔が見えてくる。

 強制分業法案が修正され、骨抜きとなって参院を通過したのは、准将帰国後一週開後の 6月2目であった。そして6月5目衆院を通過し、ドラマの幕が降りるのである。と同時に薬剤師が長年戦い取ろうとしてきた強制分業の夢も、この日をもって消え去った。

 さて、このドラマの演出者は誰れであったのか?サムス准将であったのならば、幕を引かずに帰国するはずがない。とすればそれは総指令部であり、米国薬学使節団を招いた最高司令官マッカーサー元師であったと言える。

 日本の医療制度のほんの-一部である医薬分業に、何故これほどのエネルギーを使ったのであろうか。当時の先進国がすべて分業を実施していたのは事実である。従って非分業国の日本が奇異に写ったこともまた事実であろう。しかし、何が何でも一年以内に(最初の目標はそうであった)強制分業を実現させようとしたのには、他に理由があったはずだ。私にはそう思えてならない。アメリカは確かに分業を実施していたが、法律による強制分業では無かったのである。従って、目本に対しても分業実施の勧告だけですますこともできたはずである。

 総司令部の目に写ったのは、日本医師会という巨大な財力を持った政治力と、上意下達 の一枚岩に団結する大集団に、封建性を有すると危惧したのではないだろうか。そのこと を昭和23年の薬事法改正で見て取ったに違いない。一度承認した新薬事法を直ちに改正する。それも強引にである。

 天皇の人間宣言、日本国憲法、教育、宗教改革等、既成組織の解体、或いは改革と軍国 主義につながるもの、または封建思想を有すると見なしたものは全て排除していった。その一連の流れの中に、日本医師会の改革、民主化という組織の弱体化、それが真の目的であったと考えられる。

 以上は、私の独断であるが、この時代の動きを見た感想である。従って、薬剤師による分業闘争史とは言えず、分業攻防史としたわけである。

 ともかく、医師の権益と、医師の組織を守り技いた武見氏は偉大であったと言わなければならない。そして武見氏が分業に理解を示し、新しい協調分業、つまり任意分業の芽が生れ出てくるまで、十数年の年月を待たなければならない。

 また、この時奮闘した薬剤師はその時のエネルギーでもって、昭和28年高野理事長を参議院議員に押し上げ、真の薬剤師代表議員が誕生することになる。

「先達の 事跡を尋ね 今想う」


〔年 表〕

昭和23年(1948)

7.29  薬事法公布 医師の特例調剤権本則へ

昭和24年(1949)

7.1   米国薬学使節団来日
9.13  使節団、薬事勧告書提示 サムス准将 厚生省及び三師会代表を呼び提示
    医師の調剤特例事項廃止を

昭和25年(1950)

1.9   三志会(三師会)開催 サムス准将 早急に三団体で改正案をまとめるよう指示
1.11  全国医師会長会議 分業阻止へ
1.13  サムス准将三志会へ通達、分業問題、3週間以内に態度決定せよ
1.23  26、28日三師会(医師会分業反対)
2.15  日薬両院議長へ請願書提出
2.27  日医臨時代議員会 強制分業反対決議
3.10  サムス准将 両院医系議員と懇談
3.20  日薬大衆運動小委員会設置
3.27  准将 日医代表に再び態度決定迫る
3.30  日医定時代議員会 4項目の反対決議
4.4   准将 厚相に審議会設置等具体的指示
4.8   毎日新聞分業座談会(武見、高野氏)
5.5   日薬代議員会 専務制廃し理事長制に
6.5   NHK放送討論会(武見.高野氏)
6.13  日薬厚相へ陳情書提出
6.25  朝鮮戦争おこる
7.10  厚生省 サムス准将の公開状「日医幹部は信頼できず」発表 日医役員辞任
7.26  臨時診療報酬 医薬制度両調査会設置
8.16  日医臨時代議員会 新役員決定
10.13  衆院厚生委員会第三者代表意見聴収

昭和26年(1951)

1.24  診療報酬調査会答申
2.28  医薬制度調査会 強制分業法案答申
3.20  全国薬剤師大会開催(東京共立講堂)
5.8   参院 医薬分業公聴会開催 「参院厚生委員会証人喚問」
5.11  両調査会代表者証入喚問
5.15  三師会代表者証入喚問
5.16  医・薬大代表者喚問
5.15〜17 医薬分業街頭署名運動(全国)
5.16  分業達成国民大会(東京共立講堂)
5.21  薬剤師一大デモ行進(東京5,000名)
5.21  サムス准将辞任
5.25  サムス准将帰国
6.2   医薬分業法案 一部修正され参院可決
6.5   衆院 会期を3日間延長し同法案可決 ここに任意分業法案が成立した

「修圧点」

 @ 医師、歯科医師は省令で規定された特別の理由ある場合は調剤ができる。
 A 患者、又はその看護人が特に調剤を希望する時は、医師、歯科医師で調剤ができる。
 B 実施期間を3年短縮する。(昭和30年1月1日から実施)

9.8  サンフランシスコ平和条約調印

 この時代は分業運動史上、実に特異性を有し、ここから新たなスタートとなる。
Y.F